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豆漿『熱』にめろめろ
今日午前7時30分ごろ、台中市にある日月潭行きのバスターミナル千城站にほど近い豆漿店・永和大世界豆漿大王で豆漿『冷』を注文した橋本弘彦さん(30)は「豆漿はやっぱり『熱』のほうがうまい」という声明を発表しました。会見では「たった一軒の店を試しただけで判断するのは如何なものか」という批判も出ましたが、現在の状況ではそう言わざるを得ない、との結論が出ました。一方、試された側の永和大世界豆漿大王の店員(28)によれば、わが国には数えきれないほどの豆漿店があるので、もっとたくさんの店を回ってほしい。とくにその総本山ともいうべき永和市には、ぜひとも足を運んでいただきたいなどとと訴えていました。
(好好日報・5/14夕刊)
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十五番乗り場の前で、本当にここでいいのかなと迷いながらも僕たちはバスを待っていた。五分ばかり経ったころ五十八才くらいのおばさんが、ガム___もしかしたらのど飴だったのかもしれないが、便宜上ガムということにしておく___を売りに来た。不要という身振りをして、向こうに行ってもらうと、おばさんは少し片方の足をひきずっているのがわかった。台灣では、歩道橋を降りた所とか、バス停のように人の集まる場所で時々、おそらくは身体障害者の人たちがガムや花などを根気よく売っているのを見かける。社会福祉の機関のようなものがないのか、それともガム売り花売りの元締めがいて、そこでアルバイトをしているのだろうか、そんなことを考えるくらいならガムの一つでも買ってあげたほうがいいのではないかという考えもあるけれど、とにかく僕は、気持ちよく晴れ渡った五月の空を眺めるともなく眺めながら、そんなことを考えていた。五月の空は幸せそうに見えた。
「もしかしたら反対側のバス停じゃないのかしら」と妻が言った。
「わからないな」
「あなたはいつも、わからないしか言えないの?」
「そうかもしれない」結婚してからずっと、もしかしたらその前からかもしれないけれど、僕は妻にそう言われ続けてきた。言われなかったら気がつかなかったから癖なのかもしれないが『わからない』は口癖というよりも、僕の体質なのだろうと思っている。実際この世の中で明確にわかっていることなんてどれほどあるというんだろう。世界中で一日に生まれる双子の数くらいだろうか。健康優良児だと思っていた子供が、突然死んでしまうことだってあるのだ。そう、わからないことだらけだ。そもそも一日に生まれる双子の数は何組あるのかなんて聞かれてもわからないとしか答えようがない。なぜ突然双子が出てくるかと言えば、妻は双子が好きなのだ。
双子についての考察を終えても、まだバスは来ない。
僕は双子のことよりも、今日の昼食のことを考えるほうが好きだ。もしかすると、とびきりうまい食事にありつけるかもしれない。台灣に来てから、それが目的で来たはずなのに、まだリストに挙げたメニューの三分の一も消化していないのだ。と、これからの台灣におけるおいしい生活について憂えていると、さっきのガム売りのおばさんが戻って来て、何かをしゃべりかけてきた。もちろん中国語だろうと思われる言葉なので理解できるはずはないのだけれど、不思議なことにちゃんと理解できたように思った。
「どうなされた」
「日月潭に行きたいんだけど」と日本語で言って、僕は切符を見せた。「ああ、それならここでよいのじゃよ」とまるで中国の故事に出て来る仙人のような口調で答えて、人ごみのなかに立ち去った。おばさんの後ろ姿からはイヤリングのきらきらするのが見えた。おばさんからガムを買っていたら、とびきりうまいものを食べさせてくれていたのかもしれない。
中興号という名前から想像する___おそらく誰もがそう想像するだろうけれど___姿形から、およそかけ離れた立派なバスに僕たちは揺られていた。エアーコンディショナーまで付いているそのバスを運転しているのは、くわえ煙草の男だった。くわえ煙草の男は、同じ職業というイメージから連想してしまうせいもあるけれど、いくぶん僕の父親に似ているような気がした。
くわえ煙草の男は愛想がいいのか悪いのか?そんなことを今ここで省察する必要なんて全くないとは思うけれど、世間には自分には必要がないからといって、放っぽりだしてはおけないものがあるのだ。例えば結婚披露宴を含む結婚式。一体あれほどまでに盛大に行なわなければいけない理由なんてあるのだろうか、自分もしたくなければ、人のにも出たくない。もちろんそういった盛大でない場合もあるのだけれど、とにかく結婚式には関わりたくない。と思って放置していても、関わらないでいられるとは限らないのだ。
さて、くわえ煙草の男は愛想がいいのか悪いのか?
途中の停留所で若い女のお坊さんが、大きな荷物を抱えて降りようとした。しかし彼女は切符をなくしてしまっただか忘れてしまっただかして、くわえ煙草の横で袂を探ったり風呂敷を広げたりし始めた。くわえ煙草の男は文字どおりくわえ煙草のまま片手を差し出し、早くしてくれよなという風に、若い女のお坊さんを睨んでいた。彼女が遂に切符を発掘してくわえ煙草の男に渡したのか、無念にも発掘できずお金を支払ったのかはわからないけれど、その時僕は降りる時にもたもたすることだけは避けようと思った。
しかしそんな、いくぶん警告を含んだような思いも、五月の青空の下に広がるバナナ畑を眺めてしまえば無意味だった。車窓に時々現われては消えてゆく軒下にぶら下げられたバナナたちも幸せそうに見えた。そんなこんなで目的地に着いたものの、ザックを担ぎあげるのに手間取ってしまい、結局降りるのが一番最後になってしまった時、あの若い女のお坊さんのことが思い浮かんだ。しかしくわえ煙草の男は意外にも、僕たちがまだ「シェシェ」とも言わないうちから「サンキュウ」と言って笑っていた。何かが違うと思って観察してみると、口もとに煙草はくわえられていなかった。煙草をくわえてなかったからそう感じたのか、それともくわえてないと愛想がよくなるのか、もしかしたらくわえ煙草にはそういう効果があるのかもしれないが、このくわえ煙草の男は案外優しい男なのかもしれない。あの若い女のお坊さんには、「もういいぜ今度からは気をつけな」と西部劇の台詞のようなことを言って、無罪放免をしていたのかもしれないと思った。
つまり、よくわからない。というのがこの省察における回答である。
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